―――私が言いたいのは…「物事を分別してはいけない。区別してはいけない。」―――(『黄金のノート』「序文」より)

『黄金のノート』初版は1962年。著者40代の作品である。
ドリス・レッシングは1980年代にノーベル賞候補になったが、以後、候補からはずれていたかのように見えていた時期が長い。欧米では2007年の受賞は遅すぎるとのコメントも出ている。本人も「亡くなった人にはあげられないから、生きている私になったんでしょう。」と笑っている。最高齢での受賞というおまけもついている。
だが、代表作『黄金のノート』は今日読んでも遅すぎはしない。作品には、執筆当時の社会背景が描かれ、その多くはすでに大きな変貌をとげてしまっている。そこから逆に、レッシングの視点は、その時代だけに通用する一時的なものに動かされてはいないということがわかる。執筆から50年後の今だからこそ彼女の眼力がいっそう鮮明になる。


『黄金のノート』で扱われている素材は、男女、親子、人種、差別、偏見、イデオロギー、組織と人間、と多岐にわたる。登場人物は、作家、女優、主婦、大企業家、活動家、寄宿学校に入りたがる少女、自殺を試みるニート、アフリカへ入植した貧しい白人たち、などなど。
女性解放運動の一翼を担ったかのように言われているこの作品ではあるが、レッシングは、その意図で書いたわけではない、と序文で述べている。ただ、主人公の「女」とその化身と思われる「女」たちは、いわゆる経済的自立を果たしているように見える。目次だけにたびたび現れる「自由な女たち」である。

当初、主人公「女」に見えるのはハムレットが言うような「たががはずれてしまった」世界。「女」はただただ「見」ようとする。まっすぐな視線の先には自分自身を映すひび割れた鏡。「黒」「赤」「黄色」「青」のノートは、鏡に結ぶ像と見る自分との間にある背景が透明なレイヤーのようなものだ。レイヤーには、時代背景、偏見と差別、男女、の断片が貼り付けられている。ノートごとに役割があるかというとそうでもない。「女」は、それぞれに整然としたテーマをあたえるわけでもなく、あえて混沌を避けず書き込んでいく。終局に向かって、ノートに書き込まれる量は次第に減っていく。
最終章「黄金のノート」は「これをのぞき見するやつは全員呪われるべし」から始まる。「女」は思わず笑う。アメリカ人ソール・グリーンがかきなぐった呪文だ。

レッシングは、フィクションの構築によって「それ」を描くことを避け、「女」と鏡との間のレイヤーだけを読者に提供している。
断片たちが、「女」の視線の先で「黄金のノート」になったとき、読み手には「真実」という衝撃が伝わる。「女」同様、鏡の像の向こうに「それ」が見えたならば。
しかし、レッシングは言う。

―――そもそも本というものはその構成、形式、意図が理解されなかったときにのみ生命を持つ。―――(『黄金のノート』「序文」より)